映画感想:キャッツ

なんともイネファブルな映画

舞台として評価を得ている本作を映画にするにあたり、映画と舞台という媒体のギャップ、初演時からの時間経過など様々な面で埋め合わせをしなければならなかったのだろう。

映画に携わったスタッフがそれぞれのセクションで熱のこもった仕事をしているのは確かだろう。

観客の時間的視点の変化を設計をしている。

ある意味舞台としてのキャッツの主人公は観客そのものでありジェリクルキャッツたちの宴に参加することで擬人化された猫たちの生態や哲学を覗くという形をとっている。しかし映画となればスクリーンを挟んだ傍観者になる他になく、物語の主軸となる主人公が必要になる。その主人公を捨て猫であり、未知の世界へ飛び込んだヴィクトリアにフォーカスを当てていることは正解に思える。また、何も知らない部外者としてのヴィクトリアが感じた疑問やジェリクルキャッツの一員になる過程に物語の推進力が生まれている。

まず、ジェリクルキャッツたちになぜそうまでして生まれ変わりたいのかという疑問がある。

各々が人生を謳歌していては生まれ変わる必要がないように思える。その疑問にヴィクトリアは純粋な疑問をぶつける。本作ではその生まれ変わりに一つの解釈の余地を与えてくれている。カルト的なオールドデュトロノミーに対する崇拝の先にある生贄を連想させる行為には、死による魂の浄化や救いがあるのではないかと感じた。

本作のグリザベラは舞台版ほど残酷な現実ではなく、単に除け者にされたように見える。

この点はメモリーという曲の切なさを表現する上ではノイズとなりうる可能性がある。しかし、グリザベラの見た目としての悲惨さが薄まったが故に「メモリー」に表現されている救いのなさが強調された。グリザベラは思い出の中でしか生きることができず、圧倒的に美しい幻想の中でしか生きられないのだろう。今日という一日が思い出の一部分になってしまうことで美しい記憶を汚されたくない、そんな思いが込められた曲だったのかもしれないと解釈させてくれた。

そんなグリザベラに対して思い出から拒絶されたヴィクトリアの歌う新曲「ビューティフルゴースト」はまさに「メモリー」のアンサーソングである。

美しい幻想の中に生き続けるグリザベラに対して何ものでもないヴィクトリアが希望や憧れという亡霊と踊る人生の素晴らしさを直接言い放つ。何者でもない、生まれ、経験に縛られず過酷だが自由である人生を選択するということは非常に現代的なメッセージだ。このビューティフルゴーストという曲は作曲がアンドリューロイドウェバーで作詞がテイラースウィフトらしい。この一曲に本作が成し遂げたかったことの全てが詰まっている。それは、過去の名作を生み出した巨匠へのリスペクトと現代との融合、そして名作の再解釈だ。現代の感性で見ると少し古臭い印象を持っていまうミュージカルに現代のクリエイターたちが新たな命を吹き込み、新たなステージへと作品を昇華させることで新たな価値を見出したかったのだろう。

キャラクター造形にも現代的なエッセンスを感じる。

ラムタムタムタガーはミュージカル版ではロックスターを想起させるキャラクターであった。舞台初演当時の天邪鬼で好き勝手やり放題というイメージにマッチしていたのはロックスターなのだろう。しかし、ロックスターというイメージから、R&Bシンガー風のセレブであり、少しYuouTuberっぽいキャラ造形に変更がされている。現代的なイメージに即した設定にしたのだろう。その分バックミュージックはブラックミュージック、特にファンク色が強調された編曲になっている。この点においても過去の名作を現代的にアップデートさせると同時にそのルーツへのリスペクトを欠かさないものとなっている。

本当に本作のサウンドトラックはミュージカル版と比較しても素晴らしい出来になっている。

スキンブルシャンクスの曲に関してもそうだ。元々の楽曲自体リズムに独特な魅力のある曲であったがミュージカルの特性上リズムの面白さを歌のノイズにならぬよう最小限まで抑えられていた。その反面、本作ではそのリズムの面白さを存分に堪能できる。しかもタップダンスのパーカッシブサウンドまで足されている。これは唸るしかない。

歌や楽曲だけでなく踊りも素晴らしい。映画の中盤にあたる舞踏会場でのダンスシーンはバレエにヒップホップなど複数のジャンルのダンスのつるべうちとなっており感情を動かされないわけにはいかない。中盤に差し掛かるまでダンスをちゃんと見せてくれず、やきもきするシーンが多かったのだが、それはこの大見せ場のための布石だったのかもしれない。

ダンスが素晴らしいだけにあと1秒だけでもいいからカットを破らないでくれと感じずにはいられない。このダンスをもっと長尺で見たいと思わせてくれるカットが多かった。この点に関してはネガティブな意見も多いと思う。

最後に

決して鑑賞した全員が最高と思える映画ではない。映画でやるべきことを成し遂げた反面やってはいけないことを踏み抜いている部分もある。この映画は面白くはないが感動させられる映画だ。そしてその感動は言葉ではイネファブルなのだ。したがってこの作品で感動させられる部分がそれぞれで違うのだろう。それこそが芸術作品であり、愛すべき映画なのだろう。