ヴィーガン:ノリで始めた菜食生活のきっかけ

かれこれ,半月ほどフレキシタリアンの生活を続けている. フレキシタリアンとはWikipediaによると,準菜食主義に位置づけられ常に菜食というわけではないが主に植物性の食物で生活しようとする考えのことらしい.

現在の食生活は基本的には植物性の食物のみで生活しており,友人との飲み会等で動物性のものを口にするくらいになっている.

私は肉が大好きだ.大好き”だった”なのか? 焼肉,寿司,ステーキ,ハンバーグ,ラーメンなどいわゆるご馳走と呼ばれる食事が大好きだ

でも,半月の菜食生活は難なくこなせている

流石に,以前から計画していた飲み会などで,急に食べないと言う選択は取れないので, 1度だけ動物性の食事をとった.そのくらいしか口にしていない.

意外と難なくできている.特別野菜が好きだったとかもなく,始める当初はもっと禁断症状的なことが起きるかなと思っていたが,そんなことも今のところない.

そんな自分がなぜ今の経緯に至ったかを書こうと思う.

きっかけとなった出来事は2つある.ヴィーガンの知り合いができたことと,元々仏教の考えを勉強したいと思っていたことの2つだ.

自分は元々ヴィーガンの考えに関して否定的な意見を持っていた. お肉大好きだし,肉を食べることは人間の狩猟時代から行ってきたことだし,とやかく言われたくないと思っているし,今でも思っている. 動物性のタンパク質は人間に必要な栄養素でもあるし,健康的に良いとも思っていない.

一番の拒絶反応は,肉を食べないことが完全なる正義で,相対的に食生活にを悪者扱いされているような気がしていた. ある意味余計なお世話だと思っていた.

しかし,ヴィーガンの友達ができたことで気持ちが変容していった. その友人は自身に対してヴィーガンであることを隠していた. 日本ではまだ,過激な考えとして偏見をもたれているヴィーガンであると言う”告白”に対して少し辛そうに感じていた. 過激と捉えられているがゆえに,今までの友人関係が保てないのではないかと言う顔をしていた.

その時自分は「良いんじゃない?」と返答したが,その友人は楽になった顔をしていなかった.そんな友人の感情を真に共感したいと思ってしまった.

日本でヴィーガンとして生活することは海外のヴィーガンブームとは異なる受け入れられなさや日の目を見ない感情が渦巻いているのだろう. その文化体系や価値観を勉強したくなり,半分「ノリ」でヴィーガンの生活を試してみようと思った.

そう思えたのも自身の仏教的な価値観が後押ししたからだろう. 仏教には精進料理というものがある. 生殺与奪,動物を殺めない修行のいっかんとして,動物性の食物を口にしない料理である.実際にはお坊さんなどは修行期間中に行い,普段は普通の食生活を送っているそうだが,やってみてもありかなと思いこちらもノリで始めた.

いつまでノリで続けられるかわからないが,備忘録として記録していこうと思う.

ドラマ感想:Followes

TOKYOというよりSHIBUYA 正直に言うと退屈な場面が多く自分には合わなかったドラマ

インスタ映え社会においてコネ的に依存しあっている人々を現在のSHIBUYAの記号的シチュエーションを交えながら古い価値観で描いている。

全編を通して蜷川実花の作るビジュアル、かっこいい女性像など蜷川実花の作った映像を見ていると言うことははっきりしていた。

出演している俳優、使用されている音楽含め、日本のどこかにあるかもしれないコミュニティーで完結している。 正直、この人が出てくるかー、ここでこの曲かーと自分のツボ的な物は押された気がする。 多分、このツボを楽しめる人には楽しめると思う

自分とはかけ離れた文化、かけ離れた理想、かけ離れた価値観の連続で一つの村社会を見ている気になった。このドラマで写したかったのは現代的な思想なのか、村社会での人生観なのかを混同しているように感じる。現代的な思想を描くのであれば正直危険なまでの男性の去勢だと思う。村社会での人生観だとするなら楽観的すぎる。映像として映るモノが記号的な現代感なだけで、男女の関係としては古い価値観を性別を逆転してリバイバルさせようとしている。

それぞれのキャラクター立ちには約束された成功が向かってきているように感じた。結果的に全てうまくいく。各世代のキャラクター達のキャリア場での役割、学び、育て、見守ると言う役割を放棄し、いつまでも自分が主役でありたいと言う欲求は傲慢とも言える。それぞれが自分の役割に満足した時に周りには時自分を支援してくれる異性が半自動的に存在する。

日本の映画好きキャラがやりがちなタランティーノ崇拝が出ると、ちょっとなーと思ってしまう。しかもそれが話の軸になる場面まである。タランティーノ以降の脚本はクソとか言ってる映像作家の短編がタランティーノの目に留まるかね?正直、映画好きで、女優をやりたいと言うキャラクターをチープにしてしまう場面だと思う。正直、タランティーノの中でもキルビルパルプフィクションしか見てないんじゃないか?映画好きキャラでタランティーノ崇拝は少し浅はかに感じた。世界的に公開されているドラマなだけあってちょっと恥ずかしい。

今回のドラマに出てくるSNSが雑魚すぎる。SNSに疎い自分はこんなにも簡単にバズルものなのかびっくりする。多分、今再生数を稼いでいるYouTuberの方は相当な努力の上に成り立っているのだと思う。そんな人たちがいる中で、有名な写真家に投稿された、おすすめされただけであんなにも話題になるのだろうか。結局自分の評価は有名なインフルエンサーとの人脈と贔屓がなければ証明できないと言うこのなのか。全体的に流れる、有名な人たちの目に留まることが成功の条件であるにもかかわらず、そのための努力がDMを送るくらいのことしかせず、元々贔屓されていたとしか見えない。

途中メッセアプリ上の悪口がきっかけで干される描写があるが、なんでやり返さないんですかね? モデルってあんな悪口しか言わないんですかね?元々の会話が言い逃れできないこと書いているのになんで一人だけ干されるんですかね?会話の文脈がもっと言い逃れできるレベルの水面下の戦いをした上で慣れない新人が書いてしまっただけなら分かるが。。。

このドラマで描かれる女性観、男性観にも違和感があった。このドラマに出てくる男性は無条件で女性を支援する人間しか受け付けていない。仕事をする女性、それをサポートする男性。これまでの男女の価値観が逆転した世界の話なのだろう。その価値観が現代的なのかどうかは置いといて、普通にこのドラマの登場人物の性別を逆転させたら、えらい古い価値観に映るだろう。

途中に登場する隣人の数学者の結末は酷い。なぜあそこまで仲良くなるまでにそう言う価値観の違いを話さなかったのだろか。単純にコミュニケーション不足。

結局何を写したいのかわからなかった。

音楽的には2000年代の渋谷系でまとめている。選曲的にはspotifyのプレイリストを流しているようだった。個人的にはモロに渋谷っぽい世界観は性に合わないので、その世界観で好きな曲が流れるのは嬉しい反面、流して欲しくない気持ちがある。あと、今のTOKYO(と言うかSHIBUYA)を映すドラマにしては音楽の世代感が古いかなと感じた。

映画感想:カイジファイナルゲーム

最近見た映画の中では珍しいくらい出来の悪い映画

邦画業界は興業成績と作品の品質が不釣り合いな業界だと思っている。 数々の映画がテレビ番組で大々的に宣伝し、番宣のために俳優がバラエティー番組に出て、映画の質を求める層とは異なるマーケットで興行成績を収めてきた。

そんな、邦画業界の動きにより次第に、出来の悪い邦画、面白い洋画という意識的構図が出来上がってしまったように思える。しかし、映画ファンもそれぞれで、邦画しか見ない層、洋画しか見ない層という派閥ができてしまい、映画鑑賞を趣味としても全く見ている映画が合わない状況に直面してきた。

しかし、近年面白い日本映画も多くなってきたと感じるようになってきた。これは、映画を人気や俳優だけでなく、レビューサイトの評判や口コミ、ブログなどを参考にして映画を選ぶことが増えたからでなはいかと考える。面白いと言われている映画を観にいくことが、映画ファンのコミニュティーに縛られなくなったのではないだろうか。と言っても、日本映画的な暴力映画やソフトストーリーベースの映画が面白いことに気づいたということの現れでもあるとも思えるが。

こんな日本映画を取り巻く状況の中で大資本の日本映画も手放しでは褒めれないが面白い映画が多くなってきた。多くの映画がその映画で撮りたいものを中心に据えて、見どころ自体はうまくいっている映画が多くなったように感じる。

そんな状況の中で、この映画は近年の邦画の中でも珍しいほど面白くなかった。

実写版カイジというシリーズはそもそもそんなに出来の良いシリーズとは思ってないが、面白いと思える要素は以下に思える。 ・チームまたは個人としてあっと言わせようというコンゲームものとのしての面白さ ・現実のゲームに近い形で設計された破滅的なギャンブルに勝利するカタルシス ・俳優たちのキャラの濃さ 以上の3点だろう。

今回の映画は正直言ってどれもうまくいっていない。

世界設定としては面白くなりうる設定はあった。日本経済が崩壊してある種ディストピア化された日本という設定はワクワクさせられる部分はあった。自分自身はディストピア化されるというファンタジー要素は好きな部類ではある。しかし、そうゆう類の世界設定はその世界で生きている人々の思想的変化を極めてありそうな形で描くことこそが面白い要素なのではないかと考えている。 今回の映画は元々ファンタジー要素であった帝愛世界が現実に介入しただけで、登場する人物たちの思想的にはあまり変わって変化がない。もっと人生を諦める人間たちで溢れかえっててもいいはずの世界で、多くの人間たちは上の人間に盾付くエネルギーは残っているようだ。これでは、なぜカイジという人間が主人公である必要があるのかがわからない。カイジが主人公である理由は少しだけ頭が切れて、前のシリーズから主人公であるからという以外に理由がない。主人公カイジを応援する気にはさらさらならなかった。

今回用意されたゲームはどれも面白そうとは思えない。中でも、作品の大部分を要する天秤のゲームが一番面白くない。ゲームの勝利方法が個人の持てる資産だけで戦うのは如何なものか。そもそもゲームなのか?シリーズのギャンブルの面白い部分は運勝負に見えて裏で仕組まれているため勝てないゲームが根本ではなかったのでは?そのゲームの裏をかき、純粋なギャンブルに土俵を持っていくというのが面白かったのでは?正直、今回のゲームは1作目の香川照之の演説っぽいことをやらせるために無理やりギャンブルっぽい体をなしただけの、ゲーム的要因が全くなかった。勝ち方も雑。無計画。元々勝ち線のゲームになんとかして勝っただけ。カイジが役に立ってない。 したがってギャンブルに勝利する頃には呆れ切ってしまう。もう少し、ゲームに対する事前準備の段階からゲームの意図、勝ちのロジック、計画性がもっと描写されていればよかったのではないかと思う。歯車を作っているところを見せないで歯車がハマった部分だけを見せられたよう。こんな描写で快感を得させようとするのは観客に対する冒涜以外の何者でもない。

キャラの濃い俳優たちは出てきはするが、濃くするために濃くしているだけ。大声を上げる以外に方法がないのかと思ってしまうほどキャラが単調。企画会議の段階でダサい発想の元観客を舐め切って演出プランを考えたに違いない。もし、真摯に演出プランを考えていたのであれば、才能がないことを早めに感じた方が良い。新しくキャラを作り出すことを放棄し、惰性のみで作られた映画。俳優たちが可哀想。

最後の展開は本当によくないと思った。ただでさえ劇中常にうざいと思ってしまう女キャラが急に悪くなる。今まで騒いでいたセリフが全て偽善になってしまう。なのに、しょうがない面しているところに無性に腹が立つ。人の褌で稼いだ金を平気で奪うような極悪。今回出てきた悪役の中でも一番の悪。極悪。どうせなら、貧困層の支援のために全額使って手元には一銭も残らないような展開にすべきだった。 いつも通りや懐かしさのためだけにキャラクターの人権を無視した最悪の展開。

ただ、唯一この映画で面白かったのは最後に登場した後藤洋央紀だけだろう。

映画感想:キャッツ

なんともイネファブルな映画

舞台として評価を得ている本作を映画にするにあたり、映画と舞台という媒体のギャップ、初演時からの時間経過など様々な面で埋め合わせをしなければならなかったのだろう。

映画に携わったスタッフがそれぞれのセクションで熱のこもった仕事をしているのは確かだろう。

観客の時間的視点の変化を設計をしている。

ある意味舞台としてのキャッツの主人公は観客そのものでありジェリクルキャッツたちの宴に参加することで擬人化された猫たちの生態や哲学を覗くという形をとっている。しかし映画となればスクリーンを挟んだ傍観者になる他になく、物語の主軸となる主人公が必要になる。その主人公を捨て猫であり、未知の世界へ飛び込んだヴィクトリアにフォーカスを当てていることは正解に思える。また、何も知らない部外者としてのヴィクトリアが感じた疑問やジェリクルキャッツの一員になる過程に物語の推進力が生まれている。

まず、ジェリクルキャッツたちになぜそうまでして生まれ変わりたいのかという疑問がある。

各々が人生を謳歌していては生まれ変わる必要がないように思える。その疑問にヴィクトリアは純粋な疑問をぶつける。本作ではその生まれ変わりに一つの解釈の余地を与えてくれている。カルト的なオールドデュトロノミーに対する崇拝の先にある生贄を連想させる行為には、死による魂の浄化や救いがあるのではないかと感じた。

本作のグリザベラは舞台版ほど残酷な現実ではなく、単に除け者にされたように見える。

この点はメモリーという曲の切なさを表現する上ではノイズとなりうる可能性がある。しかし、グリザベラの見た目としての悲惨さが薄まったが故に「メモリー」に表現されている救いのなさが強調された。グリザベラは思い出の中でしか生きることができず、圧倒的に美しい幻想の中でしか生きられないのだろう。今日という一日が思い出の一部分になってしまうことで美しい記憶を汚されたくない、そんな思いが込められた曲だったのかもしれないと解釈させてくれた。

そんなグリザベラに対して思い出から拒絶されたヴィクトリアの歌う新曲「ビューティフルゴースト」はまさに「メモリー」のアンサーソングである。

美しい幻想の中に生き続けるグリザベラに対して何ものでもないヴィクトリアが希望や憧れという亡霊と踊る人生の素晴らしさを直接言い放つ。何者でもない、生まれ、経験に縛られず過酷だが自由である人生を選択するということは非常に現代的なメッセージだ。このビューティフルゴーストという曲は作曲がアンドリューロイドウェバーで作詞がテイラースウィフトらしい。この一曲に本作が成し遂げたかったことの全てが詰まっている。それは、過去の名作を生み出した巨匠へのリスペクトと現代との融合、そして名作の再解釈だ。現代の感性で見ると少し古臭い印象を持っていまうミュージカルに現代のクリエイターたちが新たな命を吹き込み、新たなステージへと作品を昇華させることで新たな価値を見出したかったのだろう。

キャラクター造形にも現代的なエッセンスを感じる。

ラムタムタムタガーはミュージカル版ではロックスターを想起させるキャラクターであった。舞台初演当時の天邪鬼で好き勝手やり放題というイメージにマッチしていたのはロックスターなのだろう。しかし、ロックスターというイメージから、R&Bシンガー風のセレブであり、少しYuouTuberっぽいキャラ造形に変更がされている。現代的なイメージに即した設定にしたのだろう。その分バックミュージックはブラックミュージック、特にファンク色が強調された編曲になっている。この点においても過去の名作を現代的にアップデートさせると同時にそのルーツへのリスペクトを欠かさないものとなっている。

本当に本作のサウンドトラックはミュージカル版と比較しても素晴らしい出来になっている。

スキンブルシャンクスの曲に関してもそうだ。元々の楽曲自体リズムに独特な魅力のある曲であったがミュージカルの特性上リズムの面白さを歌のノイズにならぬよう最小限まで抑えられていた。その反面、本作ではそのリズムの面白さを存分に堪能できる。しかもタップダンスのパーカッシブサウンドまで足されている。これは唸るしかない。

歌や楽曲だけでなく踊りも素晴らしい。映画の中盤にあたる舞踏会場でのダンスシーンはバレエにヒップホップなど複数のジャンルのダンスのつるべうちとなっており感情を動かされないわけにはいかない。中盤に差し掛かるまでダンスをちゃんと見せてくれず、やきもきするシーンが多かったのだが、それはこの大見せ場のための布石だったのかもしれない。

ダンスが素晴らしいだけにあと1秒だけでもいいからカットを破らないでくれと感じずにはいられない。このダンスをもっと長尺で見たいと思わせてくれるカットが多かった。この点に関してはネガティブな意見も多いと思う。

最後に

決して鑑賞した全員が最高と思える映画ではない。映画でやるべきことを成し遂げた反面やってはいけないことを踏み抜いている部分もある。この映画は面白くはないが感動させられる映画だ。そしてその感動は言葉ではイネファブルなのだ。したがってこの作品で感動させられる部分がそれぞれで違うのだろう。それこそが芸術作品であり、愛すべき映画なのだろう。

映画感想:ミッドサマー

漠然とした不安を和らげるには

奇妙な村の風習に付き合わされる映画 コミューンの風習の設計、宗教、死生観、文化 画面作り、美術による演出、ゴア描写の作り込み この映画の感想には色々な角度から語れる部分がある。

展開やストーリー自体はシンプルである程度予想はできるストーリーであり、 観ながら、こうなるんだろうなーと思っている通りに進んでいくため、ホラー映画としての楽しみ方 ではないだろう。 前作、ヘレディタリーがどこに進んでいるかわからないといういい意味での不快さのある映画であることに対し、 ミッドサマーは分かっている終わりから逃れられないという不快さなのだろう。 したがって、怖さや斬新さを期待して鑑賞すると、つまらないと感じてもおかしくなく、合う合わない以上に観た人によって評価が異なると思う。

私自身は鑑賞中、先の展開が分かっているにもかかわらず緊張が解けなかった。 観賞後、ずしんと胃の中に重さを感じた。

ヘレディタリーとの類似する部分と異なる部分の二つの側面から楽しむことができる。

主人公ダニーの抱える不安障害・パニック障害の描き方がなんともエグい

精神的病理を描く映画は数多くあるが、多くは鬱や双極性、統合失調症が題材になることが多いと感じる 精神的病理は難しく、症状が異なると見えている世界や体験を共有することは難しい。 今回の映画で描かれるダニーの精神状態は不安障害とパニック障害の併発からくる抑うつ状態にあり、うつ病の一歩手前なのだろう。そして障害との向き合い方が不安定な状態、ある意味快方に迎える状態なのだと思う。 そんな精神状態の描写の仕方がなんともエグい。というより監督は過去に何かあったのではないかと思うほどリアルである。 不安やパニックの要因は一つということではなく、漠然と生きることに不安を感じてしまう。 自分は人生に停滞しているにもかかわらず、関係の深い人が自分から離れていってしまう不安。周囲の人間が自分のことを笑っているようにしか思えない不安。泣け叫びたいけど周りに見られたくないのでトイレに駆け込んで泣くしかない。人間が死ぬという事象がどういうことかわからない不安。自分が周りから除け者にされる不安。人生の計画に対する不安。 側から見れば、考えすぎと思われるであろう、考えてもしょうがないであろうと思えること全てに不安を感じてしまう。

そして、その不安は人生の選択が自由であることから不安を感じてしまう。

間違っても今、自身の状態と向き合おうとしている、向き合ってまもない、もしくは希死念慮がある状態では鑑賞してはいけない。 鑑賞者の人生に対し無責任で非情な映画

ホルガ村の価値観はダニーにとっては誘惑だったのかもしれない。

人生を4つの季節になぞってダニーの年齢は旅の季節であり、彼女の今の経験や悩み、停滞を肯定しているように感じるだろう。 また、彼女にとっては永遠に感じる人生に72歳で終了し、その魂が受け継がれていくという終わりと価値を具体的に提示している。彼女の家族の死に対して回答しているかのように。ダニーも自身の家族の死を儀式になぞるように肯定し始めているように感じる。死の瞬間に立ち会うこと、人間からモノに変わる瞬間を目視することで彼女の死生観が徐々に変化していっているのだろう。

このホルガ村の風習は生と死、人生の管理をしている。子の作り方、名前、死を管理することで村、コミューン全体が家族のような役割を持っている。家族との死別、恋人との不和を退勤しているダニーに必要なものを全て与えてくれている。ダニーが必要としている共感さえも与えてくれている。

ダニーとクリスチャンの関係は共依存でのみしか成り立っていない

恋人クリスチャンは障害を抱えているダニーに寄りそっていた。しかしその寄りそうことの中心に共感や愛情があるようには思えない。クリスチャンの心情としては愛する女性が早く障害から立ち直って欲しい。この障害がなくなれば関係が良くなると思っているのであろう。しかし本心としては将来のキャリアや夢がなく、人生に意味を与えてくれる存在がダニーしかおらず、ダニーに寄り添う役割を自身の存在の意味、役割にしている。つまり、依存されることに依存している共依存関係でのみ形成されているのだろう。

そんなクリスチャンは自身の好奇心で動き始めるとき恋人への依存から解放される。ダニーへの依存からの解放。ダニーにとっては取り残される恐怖に直面することだろう。

ダニーがホルガ村に取り込まれていくことは必然だ

人生への漠然とした不安や精神の不安定からカルト集団に取り込まれていく事例は歴史的に見てもそうなりやすい状態だと感じる。逆の側面として宗教的価値観が時代とともに薄まっていることや社会や家族に人生を決定するほどの強制力がないことから人生を不安に思う若者が増えていると思う。 不安の解消の手がかりに宗教を信じることはあっても良いと思う。 しかし、もしそんな時に心に入り込んだ宗教が部外者を排除することをいとまない、宗教体験をさせるために都合の良い薬物を利用するなど信じることより存続させるための宗教だとしたらどうだろうか。

人生の誰にでも起こり得る場面において、主観的には幸せであるが客観的には最悪の結末に、人生のもしそうであったならという可能性に恐怖を覚えた。

果たしてクリスチャンは裁かれてしかるべき人間だったのか

 ミッドサマーの話をするときに「クリスチャンはクソだ」とか「クリスチャンから解放されてダニーは幸せだ」などの感想をよく耳にする。確かにミッドサマーの面白さはモンド映画的なジャンル感があるとは思う。カルト的コミューンに徐々に取り込まれ、その風習の当事者として体験する楽しみ方がある。しかし、本当にクリスチャンは裁かれてしかるべきだったのか。  クリスチャンというキャラクターは人間の誰しもが抱える他人には言えない部分を内包していると思える。精神不安にかられ、依存され、大きな悲劇を体験した彼女を支えてあげるだけの人間的許容量がない。なんとなく進学し、熱中できるものが見つかりきらない。人生により多くの可能性を見出し、新たな可能性を期待している。そんな20代は当然いてもおかしくないし、裁かれるべき人間でもない。日常生活で自分がそうであった時期もあるし、現時点でそうである人もいるだろう。  そんな、そこらへんにいてもおかしくない人間を映画の最後で裁き、命が奪われることになんの違和感も感じない。これこそがミッドサマーの最大のカラクリではないかと感じる。知らないうちにホルガ村の考え方になってしまう。20代の大人と子供が混在している、そんな人間を許容出来なくなってしまう。キャラクターをリアルに描くことの怖さを改めて感じた。

最後に

まとめとして、ミッドサマーは文化、美術、生活、人間とマクロなものからミクロなものまでをリアルに表現しきった近年稀に見る大傑作である。