映画感想:ミッドサマー

漠然とした不安を和らげるには

奇妙な村の風習に付き合わされる映画 コミューンの風習の設計、宗教、死生観、文化 画面作り、美術による演出、ゴア描写の作り込み この映画の感想には色々な角度から語れる部分がある。

展開やストーリー自体はシンプルである程度予想はできるストーリーであり、 観ながら、こうなるんだろうなーと思っている通りに進んでいくため、ホラー映画としての楽しみ方 ではないだろう。 前作、ヘレディタリーがどこに進んでいるかわからないといういい意味での不快さのある映画であることに対し、 ミッドサマーは分かっている終わりから逃れられないという不快さなのだろう。 したがって、怖さや斬新さを期待して鑑賞すると、つまらないと感じてもおかしくなく、合う合わない以上に観た人によって評価が異なると思う。

私自身は鑑賞中、先の展開が分かっているにもかかわらず緊張が解けなかった。 観賞後、ずしんと胃の中に重さを感じた。

ヘレディタリーとの類似する部分と異なる部分の二つの側面から楽しむことができる。

主人公ダニーの抱える不安障害・パニック障害の描き方がなんともエグい

精神的病理を描く映画は数多くあるが、多くは鬱や双極性、統合失調症が題材になることが多いと感じる 精神的病理は難しく、症状が異なると見えている世界や体験を共有することは難しい。 今回の映画で描かれるダニーの精神状態は不安障害とパニック障害の併発からくる抑うつ状態にあり、うつ病の一歩手前なのだろう。そして障害との向き合い方が不安定な状態、ある意味快方に迎える状態なのだと思う。 そんな精神状態の描写の仕方がなんともエグい。というより監督は過去に何かあったのではないかと思うほどリアルである。 不安やパニックの要因は一つということではなく、漠然と生きることに不安を感じてしまう。 自分は人生に停滞しているにもかかわらず、関係の深い人が自分から離れていってしまう不安。周囲の人間が自分のことを笑っているようにしか思えない不安。泣け叫びたいけど周りに見られたくないのでトイレに駆け込んで泣くしかない。人間が死ぬという事象がどういうことかわからない不安。自分が周りから除け者にされる不安。人生の計画に対する不安。 側から見れば、考えすぎと思われるであろう、考えてもしょうがないであろうと思えること全てに不安を感じてしまう。

そして、その不安は人生の選択が自由であることから不安を感じてしまう。

間違っても今、自身の状態と向き合おうとしている、向き合ってまもない、もしくは希死念慮がある状態では鑑賞してはいけない。 鑑賞者の人生に対し無責任で非情な映画

ホルガ村の価値観はダニーにとっては誘惑だったのかもしれない。

人生を4つの季節になぞってダニーの年齢は旅の季節であり、彼女の今の経験や悩み、停滞を肯定しているように感じるだろう。 また、彼女にとっては永遠に感じる人生に72歳で終了し、その魂が受け継がれていくという終わりと価値を具体的に提示している。彼女の家族の死に対して回答しているかのように。ダニーも自身の家族の死を儀式になぞるように肯定し始めているように感じる。死の瞬間に立ち会うこと、人間からモノに変わる瞬間を目視することで彼女の死生観が徐々に変化していっているのだろう。

このホルガ村の風習は生と死、人生の管理をしている。子の作り方、名前、死を管理することで村、コミューン全体が家族のような役割を持っている。家族との死別、恋人との不和を退勤しているダニーに必要なものを全て与えてくれている。ダニーが必要としている共感さえも与えてくれている。

ダニーとクリスチャンの関係は共依存でのみしか成り立っていない

恋人クリスチャンは障害を抱えているダニーに寄りそっていた。しかしその寄りそうことの中心に共感や愛情があるようには思えない。クリスチャンの心情としては愛する女性が早く障害から立ち直って欲しい。この障害がなくなれば関係が良くなると思っているのであろう。しかし本心としては将来のキャリアや夢がなく、人生に意味を与えてくれる存在がダニーしかおらず、ダニーに寄り添う役割を自身の存在の意味、役割にしている。つまり、依存されることに依存している共依存関係でのみ形成されているのだろう。

そんなクリスチャンは自身の好奇心で動き始めるとき恋人への依存から解放される。ダニーへの依存からの解放。ダニーにとっては取り残される恐怖に直面することだろう。

ダニーがホルガ村に取り込まれていくことは必然だ

人生への漠然とした不安や精神の不安定からカルト集団に取り込まれていく事例は歴史的に見てもそうなりやすい状態だと感じる。逆の側面として宗教的価値観が時代とともに薄まっていることや社会や家族に人生を決定するほどの強制力がないことから人生を不安に思う若者が増えていると思う。 不安の解消の手がかりに宗教を信じることはあっても良いと思う。 しかし、もしそんな時に心に入り込んだ宗教が部外者を排除することをいとまない、宗教体験をさせるために都合の良い薬物を利用するなど信じることより存続させるための宗教だとしたらどうだろうか。

人生の誰にでも起こり得る場面において、主観的には幸せであるが客観的には最悪の結末に、人生のもしそうであったならという可能性に恐怖を覚えた。

果たしてクリスチャンは裁かれてしかるべき人間だったのか

 ミッドサマーの話をするときに「クリスチャンはクソだ」とか「クリスチャンから解放されてダニーは幸せだ」などの感想をよく耳にする。確かにミッドサマーの面白さはモンド映画的なジャンル感があるとは思う。カルト的コミューンに徐々に取り込まれ、その風習の当事者として体験する楽しみ方がある。しかし、本当にクリスチャンは裁かれてしかるべきだったのか。  クリスチャンというキャラクターは人間の誰しもが抱える他人には言えない部分を内包していると思える。精神不安にかられ、依存され、大きな悲劇を体験した彼女を支えてあげるだけの人間的許容量がない。なんとなく進学し、熱中できるものが見つかりきらない。人生により多くの可能性を見出し、新たな可能性を期待している。そんな20代は当然いてもおかしくないし、裁かれるべき人間でもない。日常生活で自分がそうであった時期もあるし、現時点でそうである人もいるだろう。  そんな、そこらへんにいてもおかしくない人間を映画の最後で裁き、命が奪われることになんの違和感も感じない。これこそがミッドサマーの最大のカラクリではないかと感じる。知らないうちにホルガ村の考え方になってしまう。20代の大人と子供が混在している、そんな人間を許容出来なくなってしまう。キャラクターをリアルに描くことの怖さを改めて感じた。

最後に

まとめとして、ミッドサマーは文化、美術、生活、人間とマクロなものからミクロなものまでをリアルに表現しきった近年稀に見る大傑作である。